○ 森内俊之 片上大輔 ● 棋王戦
http://www.shogi.or.jp/kisen/kiou/42/honsen.html
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813:名無し名人:2016/06/28(火) 20:42:26.84 ID:rGg5finQ.net
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1分将棋はハラハラするねー
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814:名無し名人:2016/06/28(火) 20:42:31.81 ID:YIVci0xj.net
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感想戦楽しみ
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816:名無し名人:2016/06/28(火) 20:48:02.48 ID:FicmOImQ.net
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森内最強
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817:名無し名人:2016/06/28(火) 20:50:34.39 ID:Bv8w5/o4.net
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と金取られてどう見ても危ないからなあ なんで歩合いじゃなかったのか感想戦コメ待ち
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818:名無し名人:2016/06/28(火) 20:56:22.80 ID:F87io9v7.net
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ちゃんと入玉してから反攻すりゃ良かったのに
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819:名無し名人:2016/06/28(火) 21:41:33.52 ID:hDvhoUjf.net
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技巧で検討してみた。
入玉模様になってからもかなり際どい勝負だったようだ。
あそこで2四歩でも先手が少しいいみたい。
800の手順の後9九玉と早逃げして、7九角には7八金と引く。
先手に駒を渡すので後手玉も相当危なくなるってわけだ。
序中盤は森内がリードしていたのが、3七馬とされたところでは逆転。
その後は二転三転していて、どちらも優位を築くチャンスを何度か逃している。
例えば3三桂成に1三玉とするような手もあった。
最後は森内の運が勝った。
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820:名無し名人:2016/06/28(火) 22:07:07.01 ID:hDvhoUjf.net
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>>819
補足。
9九玉に7七銀成だと2八飛として詰んでしまう。
かなりきわどい勝負。
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821:名無し名人:2016/06/28(火) 22:57:42.83 ID:YIVci0xj.net
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ここらへんは運だなぁ
いい勝負だった
そして感想戦更新されん
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822:名無し名人:2016/06/28(火) 23:58:29.69 ID:yqpriNFF.net
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投了局面のコメントにある詰み筋、
▲2四竜△同玉▲2六香の順は△2五飛合で詰まないと出た。それ以外の合駒は全部詰む。
だからやっぱり△2四歩としてればまだ難しい勝負だったな。
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824:名無し名人:2016/06/29(水) 05:57:40.75 ID:6K3JeKtL.net
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>>822
「金合い以外全部詰む」と30秒で読み切ったアノ人を知ってると、
実力差ってこういう所で如実に出るんだと思い知らされるか
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823:名無し名人:2016/06/29(水) 00:30:16.65 ID:uhuqDxL2.net
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ほんとだ飛車以外だと詰むね
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824:名無し名人:2016/06/29(水) 05:57:40.75 ID:6K3JeKtL.net
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>>823
「金合い以外全部詰む」と30秒で読み切ったアノ人を知ってると、
実力差ってこういう所で如実に出るんだと思い知らされるか
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/bgame/1458557878/
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なにをやっておるのか
相手は康光だったよね
あの局面で金捨ての受けがあるなんて、自分だったら100年考えてもわからん気がする
思ったら、寄せきれずからの第2ラウンドが熱かった。
それはわかったけど、824は何が言いたいんだかさっぱりわからない。
渡辺とやったいつかのNHK杯決勝だろ
君が言ってるのは金捨てだね
康光とのNHK杯の相穴熊戦での終盤の▲9六金でしょ
解説は加藤一二三だった
824で言われてるのは「金合い」
NHK杯決勝の渡辺戦での▲8四金
4連覇20連勝がかかっていたからか、ラジオ解説が米長邦雄・谷川浩司・橋本崇載の3人で解説してた
棋譜見てないのがまるわかりなコメント
羽生 と 羽生以外
双方ミスしあっての揉み合いだったのな
森内これはラッキーてかツイてるわ
前田利家(まえだとしいえ)は、加賀国(現石川県)の戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。
尾張国荒子城主(現愛知県名古屋市)利昌の四男として生まれた。前田氏は、菅原道真の後裔を名乗っているが、その出自は不明である。利家の家系は、荒子を領有した父利昌以前は詳しくわかっていない。
13歳のとき、織田信長に小姓として仕える。短気で喧嘩っ早く、派手な格好が好きないわゆるかぶき者で、武勇にも長けていた。特に槍の名人で「槍の又左」と呼ばれていた(元服名の前田又左衛門利家から)。また、信長と衆道関係にあったことは有名である。
21歳のとき、その生来の喧嘩っ早さから、茶坊主拾阿弥を惨殺して、出仕停止処分となり、浪人暮らしをした。その間、桶狭間の戦いに無断で参戦し、首級を三つ挙げたが、帰参は赦されなかった。23歳のとき、再び無断で森部の戦いに参戦し、「頚取足立」の異名を持つ足立六兵衛の首級を挙げ、ようやく信長に帰参を赦された。利家の浪人中に父利昌は死去し、前田家の家督は長兄利久が継いでいたが、31歳のとき、突然、信長より家督を継ぐように命ぜられる。利久には実子が無く、また病弱であったためであるという。
36歳のときには柴田勝家の指揮の下、越前一向一揆鎮圧に従軍し、戦功を挙げた。そして、42歳のとき、能登七尾城主(現石川県七尾市)となり、能登23万石の大名となった。信長の死後、勝家と豊臣秀吉の間で後継者争いがおこり、両者の間でその立場に苦しんだものの、結局、利家は秀吉についた。
隠居した後、秀吉から五大老のひとりに命ぜられ、嫡子秀頼の将来を託された。秀吉の死後、徳川家康らは秀吉の遺言を無視する行動があり、利家はこれに反発したが、自身の病状も悪化し、豊臣家の将来を案じながら没した。享年61歳。秀吉の死の翌年であった。
信長の衆道相手を務めていたことからも知られるように、その容姿は、美貌に加え、残された着物から背丈6尺(およそ182cm)の大変見栄えの良い武将であったと言われている。喧嘩っ早く、槍の名手であった一方、機を見て敏な世渡り上手な面もあった。
その後の前田家は、加賀国100万石を領し、明治維新には侯爵に列せられた。